砥鹿神社(三河一宮)

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豊川市一宮町にあり。本宮山頂の奥宮とともに古くから三河國一宮として崇められたきた。
毎年5月の3・4・5日に大祭が行われ大賑わいとなる。
徳川時代は里宮100石、奥宮20石だった。

30年前からの疑問「砥鹿神社西大鳥居」の寄進者長尾応次郎がわかりました。
豊川市ボランティア連絡協議会で新豊川市の歴史散策に出かけました。その時の「西大鳥居」の説明では、大鳥居石材の寄進者を
岡崎藩主との説明でした。藩主であれば「藩主・・・」と彫ってあるはず。納得できないのでインターネットで寄進者「長尾応次郎」を調べて
見ましたら、ありました岡崎武士の館発行の本に名前があり、すぐに武士の館へ行き購入しました。「岡崎藩長尾応次郎と西洋砲術」の冊子を。
三河でも稀に見る大鳥居で、お金もどっさりかかっているのに、江戸末期の天保年間に寄付するようなリッチな人は?の疑問が解消しました。
長尾応次郎は岡崎藩500石の武士で勘定奉行を務め、西洋砲術の指導者で、購入した冊子には「忠誠無私、財を得ること万金、、余財を以て
衆の貧困人を救う、これを慕うこと爺の如し、芸に於いて遊ぶ(一部抜粋)」
とあり、ボランティアの手本のような人でした。だから、この大鳥居石
材を寄付出来るのだと納得しました。長尾応次郎さんは和歌にも造詣が深く、この鳥居には和歌も彫ってあります。
神祇倭歌 歌人都筑大成 大宮之石乃御門能二柱立流禰賀比者神曽宇久良武 (オオミヤノ イシノトリイノ フタハシラ タツルネガイハ カミゾウクラム)とあります。
彫ってある文字数も鳥居としては三河で一番多く、沢山の協力者の名前もあり、見れば見るほど、過去を知れば知るほど魅力的な鳥居です。


 長尾応次郎が石材を寄付した大鳥居
 石材の二本目(貫)が修理した部分
 市田から移転した鳥居は西大鳥居となっている。 
 
 ここから拝する本宮山は素晴らしかった
 貫が空襲で折損して落下した。
 (市田にあった頃の写真、砥鹿神社資料より)

 市田の大鳥居跡には落下した貫で記念碑が建てられて
 います。 下写真が全体の姿です。
 
 爆撃の破片でか、機銃でか傷跡が残り痛々しい。
     
    鳥居横にある移転説明の碑
    
   本宮山遥拝所(大鳥居)跡
   市田にある鳥居の記念碑

 立派な門です。
 

 本殿

 神社ですから鐘楼ではなく太鼓
 
 県指定の樹齢600年の欅
 砥鹿神社前の道を下りた所にあます。
 右の写真は少し離れて大きさがわかるように
 写したもの。

 この参道を5月3・4・5日の大祭では流鏑馬
 が走る。